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「日本の笑顔を作りたい!」 ふじすえ健三は、東京大学助教授を辞して、国会から日本の笑顔を作ります。
民主党参議院議員 ふじすえ健三 公式ウェブサイト

ふじすえ健三が政治を志す理由

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[2] ふじすえ健三が政治を志す理由(4分35秒)

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ふじすえ健三の自己紹介

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[1] ふじすえ健三の自己紹介(2分44秒)

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ふじすえの志

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ふじすえ健三が、なぜ政治の道を志すに至ったかを説明したいと思います。

世の中に広く役立つ仕事をしようと役人へ

父からは、世の中に役立つ仕事をしろと小さい頃から言われていました。そのため、就職の時には迷わず国家公務員試験を受け、幅広い経済と産業の仕事ができる通商産業省(現在、経済産業省)に入省しました。

就職祝いを家族でした時、父が「健三は、世の中に直接役立つことができるからいいぞ」と言ってくれました。当時はバブル経済の絶頂期で、新入社員の給与で比較しても、商社に勤める2歳上の兄は私の倍近く給料をもらうような状況で、私も引け目を感じていましたが、この父の言葉は非常に励みになりました。

入省後は、貿易の促進、次世代コンピュータ国家開発プロジェクトの立ち上げ、米国とのスーパーコンピュータ調達に関する交渉、環境基本法の立案、日本企業の技術革新促進政策の立案などを担当しました。

米国留学から帰国した後は、産業競争力会議(議長:小渕総理)において、技術革新政策立案のプロジェクトリーダを務めましたが、①省庁間の壁により通産省所管外の政策を省外に提示できないこと、②上司の壁があること、のために私が立案した新政策は上部に完全には理解されませんでした。

この産業競争力会議も閉じられて、プロジェクトチームも解散となりましたが、その打ち上げの時、涙が突然あふれてきました。自分が全力で作った政策が、上司に赤ペンで消されていくことが悔しくてたまらなかったからです。陶芸家にとって、壺はただの作品でなく命だと思います。私の場合も同じで、私たちが考え出した政策は、私たちの命です。それなのに、あまりにも革新的すぎるから、他の省庁との調整がつかないからといった理由で消された無念から涙があふれ出てきたのです。

その時一緒にいた同僚は、それ(私の姿)を見て、私はいつか役所を辞めるなと思ったと言います。

東京大学に移る

このような中、自分の意見を自分の責任で発言できるようになりたいと考え、学科の新設に伴い新任教官を募集していた東京大学に移ることにしました。大学では、比較的自由な時間があるので、共著も含めて11冊の本を執筆するとともに、論文など約40本も執筆し、自分が研究した政策などを公表してきました。また、大学と産業界の連携や生まれたばかりの会社の支援を行う非営利組織を設置するなど、世の中に実際役立つ活動もやっていました。

同時に、政党や政府の研究会に参加し、政策を提案していましたが、ここで感じたことは、自分は「試合を外から見ている解説者」に過ぎないこということでした。つまり、色々な政策の提言などを本や論文などで公表していましたが、自分は、プレーヤーである政治家を一生懸命応援しているだけだと痛感しました。

決断

今回、解説者からフィールドプレーヤーになろうと決めました。家族も友人も、「このまま大学で名を成して、大学から世の中を変える努力をすればいいではないか」と言います。本当によく考えればそうかもしれませんし、すごく悩んで眠れない日が続きました。私の教え子の祖父で、既に故人ですが地方で有名な経営者がいますが、その方が自伝書で「考えて迷う時は、肝に手を当てて肉月に土の腹に聴け」と書いていました。そうしたら、自分のおなかの底から「自分は政治家というフィールドプレーヤーになって、直接世の中を良くしたい」との思いが湧き出てきて、妻や両親にもこの考えを納得してもらい、今回の転進を決意いたしました。

元来、自分は誰かに生かされているとの気持ちが強く、自分に与えられた役割を果たすことにより自分自身が幸せになると考えています。私は、政治の道で世の中に貢献することが、私に与えられた役割だと思っております。今の私には、迷いはありません。妻も両親も、家族に迷惑をかけないようにがんばれと応援してくれています。

今回、政治の道への転向を決めたことは、決意でなく「決断」です。つまり、「後を断つことを決めています」。

2004年2月3日
藤末 健三

動画で見るふじすえ

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[2] 「ふじすえ健三が政治を志す理由」

全4分35秒、3.9MB
2004/2/24更新

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[1] 「ふじすえ健三の自己紹介」

全2分44秒、2.2MB
2004/2/24更新

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写真で見るふじすえ

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さらに写真を見る方はこちら。 →gallery

  1. のびのびと育った少年時代
  2. ボート一筋の青年時代
  3. 限界まで働いた役人時代
  4. 川崎ファミリーの誕生
  5. 留学時代
  6. ボクシングに目覚めた留学時代
  7. 東大の教壇に立つ
  8. 健三の目下の悩み
のびのびと育った少年時代
東京オリンピック開催を間近に控えた1964年(昭和39年)、健三は、父・好一、母・春代の次男として、熊本県熊本市に産声をあげた。当時の熊本は、道路も十分に舗装されておらず、どこもかしこも健三の遊び場となり、近所の友達と日が暮れるまで駆け回っていた。ある時には、幼稚園を抜け出したり、ブランコの柵越えに失敗して足を骨折したりするほどのやんちゃ坊主であった。農家出身の母は、そんな健三を温かく見守り、のびのびと育てた。
1970年4月(昭和45年)、春竹小学校に入学する。小学校に入るまで体ばかり動かして育った健三は、勉強というものに縁遠く、自分の名前すら書けなかった。もちろん成績は最悪で、通知表には1と2ばかりが並んだ。それ以後、郵便局員の父は転勤が多く、健三は、小学生の間に5回も転校することになった。
転校生は、得てしていじめの対象になりやすいが、健三も例外ではなかった。小学校3年生の時、父の赴任先であった福岡で、同級生ではなく、こともあろうか、担任の先生からいじめにあってしまった。この先生は、健三が授業中にしゃべっていると、目ざとく見つけ、唇にクリップをつけクラス中の笑いものにしたり、解けそうもない問題をわざと健三に当てたりした。
子供は、教室内の力関係に敏感である。先生からの露骨な嫌がらせにあっていた健三の味方となる者はおらず、当然、健三は仲間はずれとなった。健三は、幼いながらに、仲間はずれにされる者の痛みを理解した。
小学校5年生の時に、転校して、大場先生と出会った。大場先生は、転校生で友達がいない健三に、早く友達が出来るように気遣ってくれた。クラスに温かく迎えられた健三は、学校が楽しくなり初めて4をとった。担任の大場先生と副担任の西先生のお陰で、勉強を好きになることができたのである。
大場先生は、健三に学校の楽しさを教えてくれた。健三は、この時の体験で教育の大事さを深く認識した。もし、健三が大場先生と出会っていなかったら、その後の人生で東京大学の教壇に立つこともなかったかもしれない。



▲子ども時代の健三
ボート一筋の青年時代
1976年(昭和51年)、熊本市内の出水中学校に入学する。運動好きだった健三は、ハンドボール部に入った。しかし、健三は、並以上の体力は持つものの器用ではなかった。緻密さを要求するハンドボールには向いておらず、あまり活躍できなかった。スポーツを通して、個性的なチームメイトと等身大で付き合う中で、健三は人と正面から向き合うことの大事さを学んだ。
1979年(昭和54年)、熊本高校に入学する。高校では、自分の体力が活かせそうなボート部に入部した。根性には自信があった健三だったが、夏は炎天下、冬は寒風が吹きすさぶ中での練習は、想像以上に厳しかった。ボート部では、精神的にも肉体的にも鍛えられた。
高校3年の夏までは、ボートに打ち込み、勉強はあまりしなかったが、成績は、中の上だった。ただ、粘り強い健三は、これまでの遅れを取り戻すために、ボートで培った集中力で受験勉強にラストスパートをかけた。成績は急上昇し、教師からは絶対に不可能といわれた東京工業大学に合格を果たす。
1982年(昭和57年)、東京工業大学に入学する。世間は80年代バブルに浮かれ、大学でもインカレのテニスサークルが流行であったが、健三は脇目も振らず、入学と同時にボート部に入部した。男臭い合宿所に寝泊りし、毎日早朝4時半から練習をした。高校時代からの日々の積み重ねと、合宿所での猛特訓の成果が花開き、全日本新人戦では2位、全日本軽量級では3位と、好成績を収めた。4年の時には、惜しくもレギュラーには選ばれなかったが、チームは全日本2位となり、3年半の間合宿所でほとんど練習だけの毎日を過ごした仲間と共に喜びを分かち合った。

▲高校時代の健三


▲ボート部の仲間と
限界まで働いた役人時代
1986年(昭和61年)、体力を買われ、通商産業省(現:経済産業省)へ入省する。同期入省のほとんどが東大卒であった。OBとの懇親会の席で、当然のように「どこの学科卒?」と聞かれ、体力を拠り所にしてきた健三にとって、東大卒であることが当然視されている省庁の風潮に愕然とした。
当時の通商産業省では、現場の権限が強く、新卒の健三にもすぐに出番が回ってきた。日米スーパーコンピュータ交渉では事務局を担当し、産業界と結託したアメリカ政府を相手に、気持ちでは一歩も譲らなかった。体力に自信があり責任感が強い健三は、毎日、真夜中過ぎまで働いた。一番忙しい時には、半年間で2日しか休暇をとらなかった。妻はそんな健三を心配して、労災を申請するための準備として、帰宅時間の記録までしていたほどであった。
また、環境基本法案の検討や産業競争力会議の事務局を担当し、斬新な企画を数多く立案した。健三の企画は、すぐに実現することが難しいものが多く、自分の力のなさを痛感することもあった。しかし、一本気な性格の健三は、自分を信じ、めげずに企画立案を続けた。当時、健三の出した企画は、現在、いくつかは実現している。


▲ロシアとの科学技術協力会議にて


▲英貿易省担当者と(日英特許制度検討会議にて)
川崎ファミリーの誕生
1991年(平成3年)、27歳で妻と結婚。健三は、九州出身の妻と初めて出会った時から、なんとなく結婚するのではないかと思っていた。翌年、長女が誕生。このとき、「人間は、子を作りこうして命をつないでいくものなんだなぁー。」と痛感した。そして、父としての自覚が芽生える。さらに翌年にも藤末家に幸福が続き、次女が誕生した。1996年、アメリカから帰国後、川崎市宮前区に居を構える。まもなくして長男が誕生し、2女1男の5人家族となった。
留学時代では、米国人の友達が奥さんと家事を分担する姿や、学業よりも家族を優先する姿を見てきた。健三は、自分もこのように家族を大事にしていきたいと思っている。
特に、健三にとって妻はかけがえのないパートナーだ。留学のための試験勉強の時には、貯金がほとんどないにもかかわらず、勉強のために貯金の大部分(合計約200万円)の使用を許してくれた。また、3人の子供を生んで健康に育ててくれているばかりか、選挙の結果次第では明日の生活も分からない政治家になろうとする健三の心意気を理解し、背中を押してくれた。健三は、これまで苦労をかけてきた妻に、これ以上の迷惑をかけてはならないと思っている。


▲ふじすえファミリー
留学時代
自分の未熟さを思い知った健三は、さらに自分自身の政策立案能力を高める必要性を感じた。上司にその純粋な思いを直訴し、留学を勝ち取り、1994年(平成4年)には、マサチューセッツ工科大学経営大学院(MITビジネススクール)に入学した。続いて翌年には、ハーバード大学行政大学院に入学した。
この時健三は、留学先の入学試験に合格するために、1年以上、忙しさをぬって、通勤電車でも勉強し、平日夜と土曜日に英語学校に通った。
米国では、生まれて初めて学問が面白いものだと知り、空いた時間には論文を書き、土日も勉強した。



▲アメリカにて
ボクシングに目覚めた留学時代
通産省時代のハードワーク経験から、常に体を鍛えておく必要性を感じ、留学先では学問だけでなく、ボクシングに取り組んだ。MITのボクシング部とハーバードのボクシング部に所属し、最年長ながらも、毎日ハードな練習メニューをこなした。ボートで鍛えた体は、すぐにボクシングに馴染み、部内でトップクラスになった。健三は、それに甘んじることなく、さらに磨きをかけるため地元のボストン・スポーツボクシングジムに加入した。そして、ほぼ毎日ジム通いを続け、プロボクシングライセンスを取得した。
帰国直前、健三は、最後のお別れを告げるためジムに顔を出した。お別れを告げる時、誰よりも数多く打ち込んだサンドバックが目にとまり、走馬灯のように、これまでの練習の日を思い返した。傷一つなかったはずのヘッドギアとグローブは、汗がにじみ、擦り切れ、ボロボロになっていた。それを目にした瞬間、涙が出てきて止まらなかった。コーチとジムの同僚は驚いて笑っていたが、その眼はかすかに濡れて光っていた。
健三は、今でもこの思い出のグローブをつけて、鷺沼のファイティング原田ジムでボクシングを続け、来るべき戦いの日に備えている。



▲ボクシングの練習風景


▲2003年に全日本ママチャリ12時間耐久レースに出場した際の写真
東大の教壇に立つ
帰国後、アメリカで書き始めた論文をまとめ始める、通商産業省における仕事で帰宅が遅いため、毎朝5時前に起きて論文を書く生活を続けていた。1999年(平成9年)、博士論文「日本企業の研究開発の国際戦略」が完成し、東京工業大学で学術博士号を取得する。同年、東京大学工学部に新学科ができることに伴う教官募集に応募し、講師として転任する。そして、翌年には助教授に就任した。
東京大学では、経営論と政策論を教えていた。学生参加型の米国ディスカッション方式で授業を行い、学生による授業評価では、ほとんどの学期で、コース別1位か2位を獲得した。
研究テーマは、ベンチャー企業経営や製造業の経営戦略だった。研究過程で、多くのベンチャー企業や製造業企業の経営者と話し合い、企業経営や製造業の問題点について今でも熱く議論を交わしている。企業の方々との議論を通して、健三は「国際競争にさらされながら頑張っている企業は、毎日を必死に生きている。しかし、政府に保護されている業種が、必死に頑張っている企業の足を引っ張っている」と実感している。
また、米国とドイツの大学(MIT、ベルリン工科大学等)との国際共同研究として、川崎市の産業再生策に関する研究も行った。



▲講義風景


▲他の先生方とのオフショット

健三の目下の悩み
健三の目下の悩みは「教育」である。公教育への不信から、ほとんどの子供が塾に行っている。そのような状況下で、教育費用が、家計に大きな負担となっている。小学生3人の父親である健三とて、その例外ではない。しかし、公教育の充実なしには、安心して子供を育てられる環境は生まれない。そのため、健三は、公教育を充実するために次のことを考えている。

  1. 「教師1人当たりの児童数を減らす」
  2. 「教員資格を見直し、社会人の中途採用や高齢者採用を可能とする」
  3. 「学校や教師を、ある程度は生徒が選択可能とする」

履歴書で見るふじすえ

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(写真をクリックすると、「写真で見るふじすえ」へジャンプします。)

経歴等
写真
1964 熊本県熊本市に生まれる。
高校まで熊本で過ごす。少年時代は、やんちゃ坊主。勉強嫌いだったため、成績は最悪だった。
1982 熊本高校卒業後、東京工業大学に入学。
高校・大学時代はボート部に所属し、全日本新人戦では2位、全日本軽量級では3位と、好成績を収めた。4年の時には、本人は補欠であったが、チームは全日本2位となった。
1986 通商産業省(現在の経済産業省)へ入省。
環境基本法案の検討や産業競争力会議の事務局を担当し、斬新な企画を数多く立案した。
1991 妻と結婚。
現在、2女1男の父親である。
1994 アメリカへ海外留学。
マサチューセッツ工科大学(MIT)ハーバード大学の両方から修士号を取得。
MITではビジネススクール(経営大学院)、ハーバードではガバメントスクール(行政大学院)で学ぶ。
1996 留学中にプロボクシングライセンスを取得する。
1999 東京工業大学で学術博士号(Ph. D)を取得する。  
1999 東京大学講師となる。(2000年には、助教授になる。)
霞ヶ関の中にいる限界を感じ、外から政策を作る活動をするために東京大学に移る。
大学では、経営論と政策論を教える。学生参加型の米国ディスカッション方式で授業を行い、学生による授業評価では、ほとんどの学期で、コース別1位か2位を獲得した。

2004 東京大学を退職し、政治の道を志す。  
  現在、神奈川県川崎市在住。  

プロフィール

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民主党参議院議員 藤末 健三

略歴

1964年:熊本県熊本市に生まれる。
1982年:熊本高校卒業後、東京工業大学に入学。
1986年:通商産業省(現在の経済産業省)へ入省。
1991年:妻と結婚。現在、2女1男の父親である。
1994年:アメリカへ海外留学。マサチューセッツ工科大学(MIT)、ハーバード大学の両方から修士号を取得。
1996年:留学中にプロボクシングライセンスを取得する。
1999年:東京工業大学で学術博士号(Ph. D)を取得する。
1999年:東京大学講師となる。(2000年には、助教授になる。)
2004年:東京大学を退職し、政治の道を志す。
2004年:7月の参議院選挙にて、全国比例区より選出され、参議院議員となる。
現在、神奈川県川崎市在住。


所属

経済産業委員会
決算委員会

民主党参議院議員藤末健三事務所