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インタビュー

藤末健三へインタビュー

聞き手:クロスロード株式会社  代表取締役社長 辻口 寛一(インタビュー日:2009年12月10日)

藤末氏は熊本の出身。幼いころはやんちゃで落ち着きがなく、勉強もできなかったという。小学校五年生のときに出会った先生のおかげで成績が伸び始め、ついには東大を目指すまでになるが、安全策をとって東工大を受験する。しかし受験後に、東大に「チャレンジしなかったことの後悔」を味わい、この時の経験がその後の人生に大きく影響することになる。

―― ご出身は熊本なのですね。生い立ちからお聞かせください。

藤末:1964年、東京オリンピックが行われた年に、熊本市で生まれました。台湾から引き上げて郵便局に勤務していた父、農家出身の母、兄と私の四人家族です。小さい頃はやんちゃで、いわゆる「落ち着きのない子」でしたね。とにかくもう、少しもじっとしていなくて、一カ所に座っていられない子でした。あ、落ち着きがないのは今でもあまり変わってないかもしれませんが...(苦笑)。当時は「長屋」住まいで子供がたくさんいましたし、舗装も不十分な頃ですから、遊び仲間と場所には不自由せず、毎日思う存分駆け回っていました。勉強の方は...、まあ、できませんでしたね。なにしろ小学校に入るまで、自分の名前が書けませんでしたから...。兄は真面目で勉強もできたので、ある先生が「お兄さんはあんなに立派なのに...」と、ため息をついたこともありました。よほど違っていたのでしょうね(笑)。 小学校時代は父の転勤で長崎、福岡、熊本と転校をくり返したのですが、うまく馴染めずにいじめにあったりして、学校が嫌になった時期もあります。しかし五年生で担任された大場先生のおかげで学校が楽しくなり、はじめて五段階評価の「4」をとったのです。体育ですけど...。でもそれから「やればできるんだ!」と思えるようになり、これ以後私の成績はずーっと上がっていくのです。ですから、子供にとって先生は本当に大切だと思います。なにしろ子供の人生に大きな影響を与えますからね。とはいえ、その後もやんちゃは相変わらずで、中学時代にはロケット花火や連発花火で戦争ごっこをするのが楽しくて...。花火を手に持って撃ち合いをするのですが、弾が近づくと「ひょいっ」とよけるのです。とても楽しかった思い出がありますが、今だったらとんでもない遊びですね(笑)。

 クラブ活動は中学ではハンドボール、高校からはボートをやりましたが、それほどの成績は残していません。学業は数学が得意で高校から理数系に進みましたが、短期集中型の私は受験直前にかなり追い込みをかけまして、ついには東大に手が届くところまで成績を伸ばしました。ただ東京に出たかったので、費用の都合でどうしても国立大学に入らなくてはならず、浪人もできない。また入試直前に伸びた自分の実力に自信が持てなかったこともあって、東大を避けて東工大を受験しました。でも受験後に「やっぱり東大にチャレンジすればよかったな...」という後悔が湧いてきました。そこで、「自分でお金を稼いで一浪しよう!」と建設現場で働き始めたのですが、一日中大変な思いで汗を流しても四、五千円程度なのです。これでは浪人はとても無理で、断念して東工大に進むことにしました。今思うと、お金を稼ぐことの大変さを知ったのはいい経験でしたね。この時に私がブロックを組んだ歩道橋は、今でも残っていますよ。それと、この大学受験における「チャレンジしなかったことの後悔」は、私のその後の人生に大きく影響を与えています。

―― なるほど。「チャレンジしなかったことの後悔」というのは、藤末さんを理解するキーワードのひとつかもしれませんね。学生時代はどのように過ごされましたか?

藤末:とはいえ、東工大に入ったのは本当によかったと思っていますよ。学生時代は専攻(情報工学)の勉強よりも、ボート部の活動に精を出しました。東工大のボート部はそれまでパッとせず、他の大学から馬鹿にされるような存在でしたが、それが悔しくて「絶対メダルを獲ろう!」とみんなで宣言したのです。コーチからは「やろうと思えば必ずやれる。実現する!」と言われ続けていました。分析の得意な仲間が選手の体格・体力・技術を詳しく調べ上げ、優勝するための練習方法や戦術を細かく分析し、とにかく実行しました。こうして全日本新人戦で二位、軽量級で三位となり、四年生のときには全日本で二位となることができたのです。この時の体験で、正しい「目標の立て方」と「努力の仕方」を身に付けたように思います。 もうひとつ、自分のポリシーになったのは、「すでに起こったことを、後悔して過ごす」よりも、「すでに起こったことを、よかったといえるように努力する」ことですね。私の場合だと、「東工大に入ったことを、後悔して過ごす」よりも、「東工大に入ってよかったといえるように、充実して過ごす」ことです。また、私はその後通産省で東大卒の人たちに囲まれて過ごしますが、東工大に進んだからこそ「東大卒に負けたくない」というエネルギーが生まれてよかったと思うのです。東大に進んでいたらそれに満足して、留学しようとは思わなかったかもしれません。

 就職活動ですが、ボート部に入れ込んでいたこともあって、積極的に行いませんでした。一般企業を回ると同時に、公務員試験も受けたのですが、「青田買い」というものを知らずにのんびりしていて、「通産省が内定を出している」と聞いてあわてて面接に行ったくらいです。私が面接に出かけたときはもう選考はほとんど終わっていた上に、何の準備もせずスーツも借り物で臨んだので、「藤末を採用すべきか」で議論は難航したそうです。最終的には「体育会出身の割には成績もいいし、まあいいか...」という感じだったようです。私自身も通産省に是非入りたいという気持ちではなかったのですが、面接でなんとなくウマが合いまして、それで決めたという感じです。ですから今の学生が真面目に就職活動をしているのを見ると、自分の時とずいぶん違うなあ...、大変だなあ...と思いますね。

入省後は連日深夜までの激務。しかし、家族の存在を励みに勉強を継続し留学を果たす。留学では学問の楽しさを知ると同時に、「個人としての存在」を意識するようになる。また、ハーバード時代の満ち足りた時間に「幸せの原点」となる瞬間を味わう。帰国後は働きながら博士号を取得。同時に、東大が自分の研究分野で学科を新設することを知り、専任講師として転ずることになる。

―― 通産省入省の経緯を率直に語っていただきましたが、入省後はいかがでしたか?。

藤末:こうして1986年に通産省に入ったのですが、これも本当によかったと思っています。はじめはコピー取りや資料配りなどの下働きばかりですが、当時の通産省は現場の権限が強く、その後は多くの仕事をさせてもらいました。バブル絶頂の頃には料亭で接待を受けてチヤホヤされたりして、ちょっと勘違いしていたかもしれませんね。でも多くの仲間達は、強い使命感を持って仕事をしていましたよ。私もスーパーコンピュータの日米交渉で事務局を担当した時は、産業界と結託したアメリカ政府相手に少しもひるみませんでしたし、環境政策課で法案作りを担当したころは連日深夜まで働き、休みも半年間で二日しか取れず、妻は労災を申請するために帰宅時間の記録をしていたくらいです。

 日米交渉で英語を読む機会が増えたことと、周囲にいる東大卒に負けたくないと思ったこと、また視野を広げて力をつけたいと思ったこともあり、留学への思いが強くなりました。27歳で結婚し子供もできましたが、かえってそれが励みになって勉強にも身が入っていたのです。仕事が忙しくて留学の年齢制限を超えてしまいましたが、上司と人事に掛け合ってマサチューセッツ工科大学(MIT)の経営大学院に留学しました。1994年、30歳のときです。MITでは通常二年かかる修士課程を一年で修め、その後ハーバード大学の行政大学院に進み、これも一年で修了しました。こうしたところは、「東大に負けたくない」というパワーが出たように思います。やはり「東工大を出てよかった」と思うところですね。

―― 大変な熱意で留学されたのですね。

藤末:留学中は多くのことを学び、人生が変わったといってもいいと思います。学問の楽しさを本当の意味で知ったのもこの時です。「なるほどなあ...こういう考え方があるのか!」という「知る楽しみ」ですね。しかしなんといっても大きいのは、それまで「通産省の藤末」だったのが、「個人としての藤末」の存在に気付いたことです。日本人は何かと「どこの組織に所属しているか」を気にしますが、アメリカでは日本と違い「自分が何者なのか」が問われます。「個人としての自分」を磨いていくことの大切さですね。しかし、アメリカでは「個」の存在が強すぎて、「個と個がつながっていること」が大切にされていないような気がしましたけどね。

 留学には家族も連れていきましたが、ほんとうにお金がないので、荷物は最小限にして船便で送ってもらい、家具などは先に留学していた人のものを使わせてもらいました。大したお金もないのに海外で暮らせたのは若いからできたことで、もう一度やれといわれてもできませんね。英語も読み書きはできても会話が苦手で、プレゼンテーションに苦労したり、会話と文章のギャップから提出物を「代筆ではないか?」と疑われたりしていました。でも会話が下手なので、疑われたり馬鹿にされたりしても、真っ赤になって怒っているだけでうまく言い返せないのです(苦笑)。

 留学中は勉強ばかりでなく、ボクシング部に入って体も鍛えていました。れっきとした体育会で、私は最年長です(笑)。ハーバード時代は地元のジムにも毎日通い、プロのライセンスを取得しました。ジムに通う車の中で暖かな日差しを浴びながら、「きれいな街で家族と過ごして、好きな学問とボクシングをやりたい放題。ああ、なんて自分は幸せなんだろう...」と感じていました。この瞬間が私にとっての「幸せの原点」ですね。決して地位や名誉、お金などではないのです。穏やかな環境の中で、充実した仕事と人間関係を持つことが大切なのですね。あの瞬間があるから、私はいくら「おいしい話」をチラつかされても、心が揺れることはないのです。私は涙もろくて、帰国の際にジムに挨拶に行ったときには涙が溢れて止まらなくなり、それを見たコーチたちから笑われてしまいました。

―― ほんとうに充実した留学生活だったのですね。帰国後はいかがでしたか?

藤末:留学期限は二年までなので仕方なく帰国しましたが、学問は続けたいと考えて帰国後も論文を書き続けていました。しばらくして母校の東工大で働きながら博士課程が修められることを知り、深夜に帰宅しても毎朝五時前に起床して論文を書き続けました。こうして「日本企業の研究開発の国際戦略」という論文を完成させ、東工大で学術博士号を取得しました。この間は仲間と飲みにいくことも一切なかったので、「藤末はつき合いが悪い」というイメージが定着してしまったかもしれませんね。

 その後、東大が私の専門である技術経営について教員を募集していることを知りました。東大では十数年ぶりの新設学科で、外部から教員を募集するのは珍しいことです。そこで上司に仲介をお願いし、通産省の人事とも折り合いをつけて、専任講師として東大に転じました。1999年、35歳のときです。

 東大では経営論と政策論を教えていましたが、学生による授業評価でほとんど一位か二位を獲得していました。講師となってからは、まずは助教授になろうと頑張って必要な論文や教科書の執筆をこなし、一年半後に助教授となりました。助教授になれば研究講座も自分で持てますし、一国一城の主となります。とはいえ、通産省時代には100億の予算を預かり多くの人の訪問を受けていたのに、「東大の先生」となった私を訪ねてくる人はまばらで、「これが通産省という組織を離れた自分の実力なんだな...」と思い知りました。留学で「個人としての自分」に気付いたとはいえ、通産省という組織を離れた自分の小ささを思い知らされましたね。

45歳までに教授になろうと研究に励んでいたところに、民主党の岡田幹事長から参議院選挙への立候補を打診される。生まれて初めて胃が痛くなるほど悩んだが、「ここでチャレンジしないと後悔しそうな気がして」政治家への転身を果たす。全国を回るドブ板選挙は、視野が広がりいい経験になったという。政治家となった当初はカラ回りもしたが、今では動き方のコツをつかみ、参議院でNO.1の活動実績を残すまでになる。

―― その後、東大の助教授であった藤末さんが政治家に転身されるのですね。その経緯を教えてください。

藤末:助教授になってからは、45歳までに教授になろうと研究論文を書きまくっていました。「世界で評価されるような仕事をしよう!」と考えていましたね。また、論文を書く傍ら民主党に政策を講義していました。党の部会や勉強会で、経済政策や産業政策を話していたのです。すると2003年11月に当時の岡田幹事長から呼び出され、翌年の参議院選挙への立候補を打診されたのです。しかも二週間で答えが欲しいという。取りあえず、その場は「家族と相談します」とお答えして帰りました。

 家族に話をすると、妻は「なに言ってるのよ」という感じで「反対といえば反対」でしたが、両親は「大反対」でした。それも当然で、研究活動の評価が高まって「東大の教授」が目前となり、講演や執筆などで収入も安定してきたところだったのです。しかも、両親が現在住んでいる鹿児島には、「政治家」はいても「東大の教授」などいませんからね(笑)。「東大の教授になろうと今まであれほど頑張ってきたのに、なんで今さら政治家になるのか?」と呆れられました。でもまあ、もっともな話ですよね。損得や合理性で考えれば、政治家になるというのは「検討するまでもない話」だと思います。

 この時は本当に悩みました。それまで悩んで胃が痛くなることなどなかったのに、胃が痛くて眠れなくなりました。でも、なんだかここでチャレンジしないと後悔するような「気」がしたのです。「チャレンジしなかったことの後悔」をしたくない...と、どこかで思っていたのかもしれませんね。こればかりは理屈ではありません。ご相談した先輩のお一人から「君は『着ぶくれ』しているよ。通産省、MIT、ハーバード、東大助教授というタイトルを脱ぎ捨てて、一度裸になってごらん。スッキリするから」といわれたのも大きかったですね。政治家を目指そうと決めてからは確かに気持ちがスッキリして、東大に辞表を出した時の空の青さや構内の景色は、今でもはっきりと憶えています。

 実際の私はとても慎重な人間で、決して「エイヤッ!」と目をつぶるようにして意思決定したわけではありません。当選する可能性についてきちんと計算しましたし、落選した際の身の振り方も考えて、家族に理解を求めました。とはいえ国立大学の教官は失業保険が出ないので、退職後は収入がなくなり、公務員住宅からアパートに越すなど、家族の生活にも大きな変化が伴います。さらに選挙期間中は二カ月間家を空けて全国を回りましたから、家族、とくに妻には本当に迷惑をかけましたね。私も人間ができていなくて「申し訳ないね」のひとことが言えずにいました。子供たちとまる二カ月間会えないのも、父親として申し訳ない思いでいっぱいでした。

―― やはり選挙は大変だったのですね。

藤末:はい。でも選挙で全国を回ったのは、本当によい勉強になりました。有難いことに立正佼成会という宗教団体から御推薦をいただきましたが、私の顔は全く売れていませんので、選挙ではとにかく人と会う必要があります。やはり有権者の皆さんは「会ったことのある人」に票を入れるものですからね。こうしていわゆる「ドブ板選挙」で全国を回ってみると、今まで自分がいかに世間知らずだったかを痛感しました。老老介護の現場やネットカフェで過ごす人たちなど、「大学の先生」では出会わない方々とも、たくさんお目にかかりました。選挙とはよくできたシステムで、こうした現場を知らない理屈だけの人は当選しないようになっているのです。

 また、通産省を辞めたときには訪問客が激減して自分の小ささを思い知らされましたが、今回は「個人としての藤末」を応援してくれる人の多さに感激しました。活動資金を集めるためにパーティを開いたのですが、その時に来て下さった方々のお顔はよく憶えています。それこそ私は所属も肩書もない「素っ裸」になったわけですから、そこに来て下さった方々は、ほんとうに「個人としての藤末とつながってくれている」方々なのですね。結果は18万3千票をいただき、当選することができました。選挙が終わったあと自宅に戻り、家族の顔を見てからようやく安心したのでしょうね。ドッと疲れが出て泥のように眠りました。

 こうして政治家にさせていただきましたが、今から思うとはじめのうちは動き方がよく分からずに、カラ回りばかりしていました。正しいことを言えば通ると思っていましたし、諸先輩からすれば自己主張の強い生意気な奴に見えたことでしょう。思うように活動できないもどかしさから、政治家になったことを後悔した瞬間もあります。このときも親しい経営者の方からアドバイスを受け、まず自分の主張は置いといて与えられた仕事を一生懸命に全うしよう、と考えを切り替えました。そうすると、事務局の仕事などを依頼されることが多くなり、それを一生懸命にやっているとこちらの主張も通りやすくなるなど、動き方がわかってきました。要は歯車がかみ合わないうちに、いくらリキんでも駄目なんですね。私の国会での活動実績を見ていただくと、年を追うごとに数字が急増していくのがおわかりいただけると思います。今はもう動き方はよく分かっていますので、なんとか引き続き活躍の場をいただきたいと願っています。

政治家としての動き方を身に付けた後は、めざましい活躍を始める。それまでのバックグラウンドから外交と産業を得意分野としていたが、現在は福祉と環境、そして教育に思いが至っているという。ここ10年で諸外国の手本となるような社会構造を作り上げ、その後はその文化的共通点を明らかにしてアジアをひとつにするべく活動したいという。やはり氏にとっての幸せの原点は、あのハーバードでの幸せな瞬間にあるようだ。

―― それでは、政治家としての藤末さんのお考えを聞かせてください。

藤末:もともと政治家になってやりたかったことは外交と産業で、簡単にいうと「元気な国を作りたい」というものでした。しかし政治家になってから福祉と環境、そして教育に思いが至るようになりました。これらを組み合わせて今までの社会の枠組みを見直し、他の国にも参考となるようなモデルを作り上げたいですね。少子高齢化を乗り切り、環境問題に対応しながら、みんなが安心して暮らせる社会。経済的に豊かになることと、生活が豊かになることが、両方一致するような社会構造です。自民党の政策では、企業は豊かになっても生活が豊かにならず、また福祉だけをいくら充実させても生活は豊かになりません。海外の仕組みを鵜呑みにせず、日本の文化を大切にしながら福祉・環境・教育・産業・外交を組み立てるのです。そうしないと国民の皆さんは将来に希望が持てず、生活防衛ばかり意識して、縮こまるだけの社会になってしまいます。

 産業では、やはり貿易の振興は欠かせません。日本はどうしてもエネルギーと食糧を輸入に頼らざるを得ない現状があります。ただ、安易に貿易を増やすと海外の人件費との競争となり、賃金を押し下げる要因となりますので、貿易は高付加価値のものに注力し、少ない貿易量で暮らしていけるようにします。日本は現在エネルギーを20兆円、食糧を6兆円輸入していますが、それを15兆円位に下げるのです。そのためにエネルギーの使用効率を改善し、食糧自給率を引き上げて、内需を押し上げます。移民も人件費を下げるために受け入れるのではなく、優秀な人が日本で活躍したいと訪れるようにしなくてはなりません。そして日本にずっと住んでもらえるように、日本で子供を育てたいと思えるようにするのです。なんといっても、日本ほど清潔で安全な社会はありませんからね。

 外交では、安全保障の論議ばかりでなく、東アジア共同体を創ることによってアジアの国境を低くして、平和を創るということに注力しています。これは政治家としてだけでなく、一生かけて取り組みたいテーマですね。政治家になって様々な課題に取り組んでいますが、このテーマが一番自分にとってピッタリくる気がします。現在早稲田大学で国際関係論を研究していますが、政治家としての仕事を終えたらアジアの文化的な共通点を研究する国際機関を創りたいと考えています。アジアの宗教は多神教が多く西洋とは明らかに異なるもので、長い目でみた東洋哲学を研究するのです。私はもともと仏教哲学が好きなのですが、文化的な共通点が明らかになれば信頼関係がより構築できると思うのです。日本では西洋哲学を優先して教育していますが、その点も見直すべきかと思いますね。

 教育といえば、子供の教育の議論だけでなく、生涯教育についてもっと議論すべきですね。たとえば、大学はもっと学びたい人に対して門戸を広げるべきだと思います。その代わり、きちんと勉強しないと卒業できないようにするのです。私の母も72歳で大学に通っていますが、大人になってから改めて勉強したいという人に、学ぶ機会を提供してあげなくてはいけません。

 福祉についても、福祉国家というとすぐ国が手を差し伸べるようなモデルになりがちですが、国だけでなく人と人が支え合うハイブリッド型の社会を作りたいですね。とくに家族で支え合うことはとても大切です。例えば介護の問題などでも、なんでも国が面倒を見るという形にせず、自宅でお世話をされる場合は手当てを半分お出しするとか、二世帯住宅を建てる場合には容積率を緩和したり税率も安くしたりして、家族間で支え合うことを支援するようにするのです。家族間だけでなく地域の人同士が支え合うために、地域コミュニティなども活性化させるべきですし、会社もひとつのコミュニティとして人と人がつながって支え合う場として考えていくべきです。決して、アメリカ型の「個が分断された社会」ではなく、「個を大事にしながら、つながっている社会」を作るべきだと思うのです。

―― 藤末さんの経歴だけを見ると、理系で官僚、学者出身。アメリカナイズされたドライな人を想像する人もいるかもしれませんが、実際の藤末さんは感激屋で涙もろくて家族を大切にする、いいお父さんという感じですね。そこに藤末さんの原点があるのではないでしょうか?

藤末:私が育った長屋は六畳と四畳半しかなく、幼い頃は目が見えないおばあちゃんと一緒に寝ていました。おかげで私は今でも、おじいちゃんおばあちゃん方とお話しするのが大好きなのです。残念ながら私の両親は鹿児島に住んでいて一緒に暮らすことができませんが、三世代が一緒に住めば子供の教育上もよいことがたくさんあるし、支え合うこともできます。今は「家族」がおかしくなっています。ネットカフェ難民と言われる人たちと話をすると、「家族を捨てた」というのです。彼らの多くは失業していますが、深刻なのは失業よりも「失家族」なのです。自立する過程で「家族と離れて暮らしたい」と思うのは健全ですが、「捨てたい」というのは違います。こうした点からも、「個を大事にすると同時に、個と個のつながりも大事にする社会」を作りたいですね。家長制のよさを見直すのも、意味があると思います。以前は家長となる人が財産を継ぐ代わりに、親族でなにかあった際には面倒を見ることになっていました。職や住む所に困ったら、家長の所に頼ることができたのです。

 現在の日本は新しい社会の仕組みを築く前の産みの苦しみなのだろうと思います。しかし少子高齢化時代を乗り切って、環境問題にも対応して、みんなが安心できる社会は必ず実現できると思います。そうしたら、そのひな型を作って海外にも参考にしてもらえるようにしたいですね。とくにアジアは家長制についても抵抗がないので、日本で創ったモデルは参考にしやすいと思います。

 私は108歳まで生きて玄孫の顔をみたいと思っているのですが、こうした社会構造の構築をここ10年で終わらせて、その後はアジアをひとつにするために学問の世界に戻りたいと考えています。アジアの哲学を研究して、その文化的共通性などを明らかにし、80歳の時にはアジアをひとつにできたらいいですね。できれば研究はイギリスでやりたい。アングロサクソンの中でアジア哲学を研究するのがいいのです。そうして、ハーバードで味わったあの幸せな瞬間をもう一度とり戻すのです。そのあとは壺を創りたいですね。台湾の故宮博物館で白磁の壺を見て、人工物でこれほど美しいものがあるのかと感動しました。使えるものの美しさですね。

 先日、学生さんと話をしていた際に「藤末さんは強いですね」と言われましたが、実際の私は特別に強いわけではありません。自分の強みと弱みを分かっていて、弱みを人に見せないだけです。私ひとりでは、ほんとうに情けないくらい弱い人間ですよ。特に、私にとって家族とのつながりはなによりも大切で、これを失ったら糸の切れた凧のように自分をコントロールできなくなるでしょう。今は土日もなく働いていますが、だからこそ外での会食はできる限りお断りして、家族そろって食事をとる時間を大切にしています。でも多くの人は自分が本当に大切なものがわかっていないし、わかっていてもそれを守ろうとしない人が多いのですね。妻とは結婚したばかりのころはケンカもしましたが、遺伝子が共鳴するというか、本当にわかり合える大切な存在です。今は与えられた使命を果たすため迷惑をかけてばかりですが、いずれはまた学問の世界に戻り、あの静かで幸せな時間を一緒に過ごしたいと考えています。

―― こうしてお話を伺っていると、日本が新しい社会構造を作り上げて希望を取り戻し、それを手本にしてアジアがひとつにまとまっていく姿が目に浮かぶような気がしますね。その原点が、人と人とのつながり、特に家族というものなのですね。本日は誠に有難うございました。

藤末:有難うございました。

インタビューを終えて

華々しい経歴とはうらはらに、とても不器用な人だな...という印象を受けました。しかし、不器用だからこそ困難にぶつかることを恐れず、周囲の人のアドバイスを素直に聞いて軌道修正をしながら、あるべき姿に近付いてきたのだと思います。こうした人にこそビジョンを語ってもらい、我々もその実現に向けて後押しをしていきたいですね。

藤末さんとは数年来のお付き合いですが、今回こうしてロングインタビューをしてみると、「実はとても不器用な人なのだな...」という印象を受けました。「チャレンジしなかったことの後悔」がよほど身に沁みたのかもしれませんが、「無難に過ごす」という生き方は藤末さんの辞書にないのでしょう。そのために、あちこちにぶつかって痛い目に会いながら、軌道を修正し、今日に至っています。軌道修正の際に、周囲のアドバイスを素直に聞くところも興味深いですね。政治家になった直後にも「正しいことを言えば通る」とばかりに正論を通そうとして、うまくいかずに落胆したことを率直に話しています。これも不器用さのひとつの現れといえますし、そこで知人の経営者からのアドバイスを素直に聞いて、「歯車をかみ合わせる」ように軌道修正するところが藤末さんらしいところです。

華々しい経歴のように見えますが、よく見ると紆余曲折が多くて、決してスマートな人生だとはいえません。冒頭、「落ち着きがないのは今でも変わっていない」と笑っていましたが、生まれ持ってのエネルギーが巨大なのでしょう。普通の人では、どれもこれも中途半端になってしまうところです。よしんば中途半端にならなかったとしても、これだけの経歴であれば鼻にかけて人のアドバイスを聞かなくなるでしょう。ご自身でもスマートに生きようなどとは少しも思っていないでしょうが、経歴だけから受けるイメージと実際の印象がこれほどギャップのある人も珍しいと思います。今回のインタビューで、そうしたギャップを正確にお伝えすることができれば、インタビュアーとしてうれしい限りです。

藤末さんは、大久保利通を「ほんとうの意味で無私の人だから」と尊敬しているそうですが、大久保はその怜悧で威厳のある印象とはうらはらに、家庭ではどこまでも優しく子ぼんのうな父親であったと聞きます。趣味もほとんど持たず、酒も飲まない、そうした大久保が英気を養う場となったのが、家族そろっての食事の時間だったそうです。大久保は明治維新後のわずか10年間で、現在の官僚制につながる新生日本の礎を築きました。そうした意味でいうと、藤末さんが今後10年間で新しい社会構造を作りたいと考えているのは納得がいきますし、なにやら大久保と藤末さんを重ね合わせてしまうのは行き過ぎでしょうか。大久保は残念ながら暗殺されてしまいますが、藤末さんは政治家として活躍した後、そこで築いた地位や名誉などに安閑とせず、新たな活躍の場を見出していくことになるのでしょう。

現在の日本は新しい社会構造を作る前の産みの苦しみだと語っていますが、こうしたタイミングでビジョンを語るのは、誰にでもできるわけではありません。外交や産業政策に明るく、福祉や教育、環境にも思いが至り、困難にぶつかることを恐れず、周囲の人のアドバイスを素直に聞きながら軌道修正を続ける藤末さんにこそ、その資格があると思います。何よりもこの五年間で、政治家としての動き方を身につけてきたのですから...。私たちも彼のビジョンを実現するべく、できる限りの後押しをしていきたいですね。

藤末さんの今後のご活躍を、心から応援したいと思います。

インタビュアー : クロスロード株式会社 代表取締役社長 辻口寛一

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