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哲学者 ヤスパース

[2006年01月11日] [哲学] [コメント (4)] [トラックバック (0)]

外交系の資料を読んでいますと、ドイツのカール・ヤスパース(1883-1969)を発見しました。

彼の説明を読んで感心したのは

1.ヤスパースは、究極の真理は認識不可能という「理性」の限界を提示しようとした。これは私の考えと逆で、私は、科学を深めかつ統合すれば「真理を見つけることができる」と思っています。ヤスパースがどのような議論を展開しているか興味があります。

2.「哲学は本来公共的な空間においてその真価が示される」との考え。彼は、哲学者として政治にも意見を表明しています。この点は完全に私と一致しています。私は政治家から哲学者になりたいと思っています。

『哲学的論理学』という書きかけの大論文があるすです。
それは、第1部「真理論、第2部「カテゴリー論」、第3部「方法論」、第4部「科学論」となっているようです。真理論は完成しているそうで、第4部では「哲学と科学の相違」に関する見解にもとづく科学論が語られるそうです。

早速読みたいと思い、AMAZONを検索しましたが、見つからず、代わりに読みやすそうなものを2冊購入しました。楽しみです。

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コメント

私は大学院で哲学を専攻し、主にカール・ヤスパースの哲学を研究しておりました。特に彼の述べている「理性の限界」についてお話します。彼によれば科学とは17世紀におけるデカルトの合理主義哲学の伝統に立脚し、自然を数学・数式化して単純化・方式化させ、それに自然科学の感覚経験による実験的態度を加えることにより、自然を全て実験及び法則化により支配しつくそうとする方法的態度ということになります。そのため科学を最終的に根拠付けるのは、そのような法則化を理解する我々の理性です。しかし20世紀における二度の大戦の反省から、理性を働かせれば人類はよりよい方向へと発展するという、単純な主知主義的理性主義に対する懐疑が起こるようになりました。そのため科学・すなわち理性でもって我々人間を全て割り切ることができないと主張する立場が生まれたのでする。それがいわゆる実存哲学・実存主義です。古代においてアリストテレスが「人間は理性的動物である」と看破したように、我々は理性をもった「動物」であるので、全てを理性で割り切ることはできないのです。実際に科学を単純化して、「これこそ真理である」と自認しているマルクス主義、フロイトの精神分析、ナチズムの人種理論等を、ヤスパースは全て科学の衣をまとった信仰であるとし、そのような動向を全て疑似科学であると批判しています。長くなりましたが、ヤスパースにとって科学とは全てを知り尽くす全体知などではなく、ある一定の立場に立って、その分野の方法論を駆使して一つの世界観を構築する方法的態度なのです。そのため彼は科学の個々の分野における厳密性を認めつつも、科学の各分野を総合した全体知などはありえないとするのです。

投稿者 EXISTENCE : 2006年01月19日 00:55

ありがとうございます。哲学入門を半分読みました。通常の本であれば1,2時間で読むのですが、素人なので時間がかかりますし、正直理解できていません。
お教え頂き本当に感謝です。「マルクス主義、フロイトの精神分析、ナチズムの人種理論等を、ヤスパースは全て科学の衣をまとった信仰である」とのところは、特にナチズムへの反感をヤスパースは持っていると推察しています。
「そのため彼は科学の個々の分野における厳密性を認めつつも、科学の各分野を総合した全体知などはありえないとするのです。」の部分はすでに哲学入門内で発見しました。線を引いています。私は生意気にも全体知はありえるのではないかと思っています。それについての考え方を知りたく無謀にもヤスパースを読ませていただきました。
今度、書評書きますので、ご批判といいますか、お教えください。正直、哲学は大の素人です。

投稿者 藤末 : 2006年01月22日 18:24

武田康弘です。
私のブログ「思索の日記」へのトラックバック、いま気づきました。ありがとうございます。
全体知(総合判断)と部分知(個別学問・科学)とは、次元を異にするものです。全体知は、「科学」ではなく、「恋知」と呼んだ方がよいのです。科学を全体知というのは、根源的な言語=概念矛盾です。
「民知ー恋知と公共哲学」http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori65.htm
および
「民知宣言」http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori61.htmをご参照下さい。

投稿者 武田康弘(タケセン) : 2006年02月09日 10:50

>>武田先生
ありがとうございます。正直、ど素人ですので、色々とお教えください。
お教え頂いたURL色々書かれてあり、勉強になります。
正直、哲学者の著書を読書感想で書くのは私のレベルが低すぎ、気が引けますが、折角なので色々と勉強の手引きを頂くためにも、掲載させていただこうと思います。
週末にもう一度ヤスパースの哲学入門を読み直し、感想文を書かせていただこうと思います。
サイトにある「専門知をたくさん集めても全体知=民知にはなりません。専門=部分の中で概念化し、精緻化していく作業と、全体を見ることとは、頭の使い方が根本的に異なるからです。部分の和はどこまでもいっても部分の和であり、全体像ではありません。
 したがって人間や社会の本質的な問題を考えるためには、自然科学の探求仕方とは全く異なる方法が必要です。対象を対象として突き放して見る「客観学」的手法は無意味です。」
との点ですね。
私ももっと勉強しています。先生に追いつくのには相当時間がかかりそうですが、がんばります。
正直、哲学の本は面白いです。今、エンゲルスの「空想から科学へ」を読んでいます。

投稿者 藤末 : 2006年02月10日 19:19

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