「職業としての学問:Wissenschaft als Beruf」 マックス・ウェーバー
[2006年02月27日] [日記 | 読書録 | 哲学] [コメント (0)] [トラックバック (0)]
もともと大学の先生をしていましたので、色々と思うところがありました。
講演を基に書かれているので、あまり哲学書的な感じではないように感じます。
解説書を読むと、講演当時のドイツは、第一次世界大戦での敗北で疲弊し、学生たちは、あらゆる意味への問いに答えうる価値観を求めていたといいます。もしかしたら現在の日本もこれに似た状況にあるのかもしれません。
長いので、続きでご覧ください。
まだまだ体系的な知識がないので、
気になった部分を抜粋して書きます。
○ウェーバーは『プロテスタンテイズムの倫理と資本主義精神』の中で、職業における勤勉と倹約といったプロテスタント精神が経済に及ぼした影響について 語っています。本書でもやはり「職業」と「宗教」に対する関心の高さを感じました。ただ、キリスト教の知識がないため、多くを理解できないでいるように感じます。
○一方、ウェーバーは東洋哲学の知識が不足しているのではないかと感じました。本書でも、「プロテスタンテイズムの倫理・・」でも、東洋宗教に言及していますが、本書にあるように「すべての東洋の神学がインド神学に帰着する」との指摘を読むと、東洋の思想には造詣が深くないのでは?と思ってしまいます。)
○大学の若い教職の給与について、「合衆国では、・・・・・半熟練工がもらう額に達する程度(ドイツでは無給)」と言っており、昔から大学の先生は給与が低かったと知りました。
○本書にある「人間として自覚のあるものにとって、情熱なしになしうるすべては、無価値だからである」。仰るとおりだと思います。情熱は、霊感を生み出し、霊感は学者にとって決定的なものである、とあり、霊感というか直感的なひらめきは学者に不可欠なものです。
○思いつきは、ダラダラ坂道を散歩しているときなど起きやすい。
>>これもうなずけます。私も歩くのがすきですが、散歩は、アイディアを与えてくれます。
○今や学問は個々の領域において専門化の過程にあり(神々の闘争)ような表現がありますが、この状況は今でも同じだと思います。知識がどんどん細分化・非構造化されているのが現在の学問にも言えるのではないでしょうか?ある評論では、これを学問の否定として捕らえていましたが、私には、ウェバーが学問を否定するとは考えられませんでした。
○そして、彼は学問と政策の峻別を説き、教師は教室における講義の中で学生に自己の主張を強制してはならない。
>>ここで言う政策は、日本の政府の政策ではなく、英語でいうポリシー(個人の主張的なものも含む)ではないかと思います。他の翻訳本を読んでいても、時々、訳が微妙に違うのではないかと思うことがしばしばあります。やはり原文、できれば英語で読まなければならないのでしょうか?先日、ドイツの公使とドイツ哲学について議論したときに、専門用語がわからずに苦労しました。今後の展開を考えると少なくとも英語で哲学を語れるようにすべきだと思っています。
○そして最後に、「時代の宿命に絶えられないものは、信仰へと戻る(「知性の犠牲」を捧げ)」、そして、「日々の要求にー人間関係のうえでもまた職業のうえでもー従おう」としています。
>>この指摘は深いです。私自身も「宿命を受け入れられないような者」です。しかしながら、日常的には、日々の要求に従いながらも、知識的には、必死にあがない、学問を深めたいとやっています。
私の理解では、どうも二者択一のステレオタイプな考え方があるように感じます。ちょっと受け入れがたいです(私の理解不足である可能性が大きいですが)。
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