「空(くう)」とは?
[2006年09月12日] [日記] [コメント (2)] [トラックバック (0)]
先日、友人と仏教哲学の話をしました。そこで「空」に話になりました。
「色即是空、空即是色」と般若信教にありますが、「空」というのは仏教の重要な概念だと私は思います。
西洋哲学には「ゼロの概念」はあっても、「空」はないと私は理解しました。
禅の本などを読むと、「空」とは、精神の在りように書いていますが、本当の空とは何かを考えてしまいます。
私は、物理学的にいうと「空間さえもないものが空」となるのではないかと考えています。空間が存在すればそこは有(空間が存在するという意味で)であり、空ではないと考えます。
例えば、ビッグバンで宇宙が誕生する前にあったものが「空」ではないかと思うのです。
一方。空間と言うものさえもない状況が「空」と定義すると、我々は空を物理界では認識できなくなります。認識対象がなくなります。
物理界で認識できない、「空」を情報界(脳みその中)だけで定義したとしても、それは果たして、「ゼロ」と違う意味を持つものでしょうか?
全く認識できないもの、理解できないものを「空」と定義すればなんとなく、解ったような気にもなりますが、もう少し勉強してみます。実は、先日考え始めたばかりです(選挙の応援をしながら)。
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コメント
東工大経営の学生です。
本日のメールマガジンで空の議論がありましたので、早速投稿させていただきます。
私は中学1年のころから仏典をかなり読んできましたので、ある程度の話は出来ると思います。
まず般若心経の成立過程ですが、訳者は大唐三蔵であるところはよく知られており、経典の核心部分が「(色性是空 空性是色) 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」となっております。()部は一般には出てきませんが、元来はこの三喝が繰り返しあったとみられています。この核心部分は大乗派の基本概念であり、上座部やセイロン島のバーリ派(最古の仏教の正確を最もよく残しているといわれる)には無いものです。この部分は成道したシッダールタ、釈尊の直接の説法と伝えられるものには、これに対応する文句がなく、三蔵が学んだ8世紀のインドでの仏教教学のエッセンスをとりだし、観音が舎利子に説法するという現在の形にしたと見られています。それゆえ、「空」の概念は、釈尊の直接の言葉ではなく、その後1300年かけて大乗派が仏教のエッセンスとして取り出した完全に教条的な言葉として語られています。
「空」の解釈ですが、あらゆる物質、人間存在の理由、感情がある理由、物ができたり、消滅したりする理由を突き詰めれば、すべてが無でなければ、この物事の変遷を説明できない、とする窮極的概念として語られていると考えています。しかし単に、社会も、宇宙もすべての本質は無であり、(日本仏教的な)虚しいものだ、としているわけではありません。般若心経の「空」は、人間からすべての苦しみ取り去り、完全な智慧をもった存在となれるように、あらゆる人間に説かれている、という点です。すなわち、平家物語の「諸行無常」とは正反対の性格を持っているというわけです。あらゆる意味で、人間の生を肯定し、より完全な者として生きられるような智慧を与えるための経典である、と私は考えています。だからこそ、常に「色即是空 空即是色」などと対句になっているわけです。仮にすべては虚しいものだ、という解釈を植えつけたければ、「色性是空 色不異空 色即是空」となり、空から色が生まれることはい、という内容になっていたはずです。私の解釈では、般若心経の背景には、明らかに究極的な人類救済の理念がこめられているのです。
私の座右の銘は、「犀の角のごとく独り歩め」というものです。これは、南伝仏教のパーリ語経典、スッタニパータから抽出したもので、釈尊の言葉を最もよく残した経典とされるものです。ここでは新約聖書のように、釈尊が衆生に語る形で経典が書かれています。中身は多くのサイトで公開されています。あるサイト(上記URL参考)から拾ったものです。
あらゆる生き物に、暴力を加えず、
いかなる生き物にも、苦悩を与えず、
子女を求めることなく、朋友を求めず、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。
交わりをなせば、愛情が生まれる。
愛情が生まれれば、苦悩が生まれる。
愛情から、苦悩が生まれるのを、見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。
朋友や親友などと、時間を共にし、
心が絆されると、己の利が損われる。
親交から、浪費が生まれるのを、見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。
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実際には、この文句が35近くあります。この経典を見ると分かりますが、明らかに般若心経とはスタイルが異なっています。バーリ派の経典は新約聖書のような、大変にわかりやすい切り口で書かれており、対する般若心経は明らかに大乗派の一流仏教学者がエッセンスのみを突き詰めた学術的経典になっているということです。「空」は仏教の真髄である、というのは、大乗派に限られるものです。恐らくは、三蔵の学んだ当時の北インドでの仏教が、限られた学者肌の僧侶のみに構成されるようになり、一般大衆と隔離されていった過程で理論だけが突き詰められてのかも知れません。
投稿者 kiba : 2006年09月20日 01:20
藤末先生、ご無沙汰しております。
私は真言密教の修行をしていますが、密教の中で「空」という概念は、「認識できないけれどもあるもの」という意味のようです。
例えば「空気」も、一見何も無い状況ですが、科学が進歩すると酸素やら二酸化炭素やら、人間や生物にとって重要なものがたくさん含まれている事が分かります。
視覚でいえば、紫外線、赤外線の世界が「空」で、見えませんが波長は存在しています。
こう読むと般若心経は、人間の認識の有無に関わらず、世界は同じ法則で動いている事を前段で主張している訳ですが、この「空」の世界こそが、経典にそのような表現はありませんが、真言密教が考える「大霊界」であり「仏の世界」です。
よく「無一物中無尽蔵」などと言われますが、自分が感知できない様々な豊かな働きが宇宙にはある事を密教は主張します。「空」から情報・エネルギーを引き出す手法が真言密教の行法、と言う事かもしれません。
禅宗をはじめ顕教の精神論的な読み方とは異なり、少し違和感がありますが、「全く認識できないもの、理解できないものを『空』と定義すれば」というのは、真言密教の考え方で言えば大正解のような気がします。
投稿者 沼田 : 2006年09月20日 09:57







