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亡くなった友人のお母さまとの話 幸せとは。  はてなブックマーク - 亡くなった友人のお母さまとの話 幸せとは。

2017年11月05日

小学生の頃に一緒に遊んでいた友人が海外で交通事故で亡くなった。

当初は、海外で葬儀を行ったため、日本では葬儀を行わないと聴いていたが、彼が勤めていたい会社がお別れの会を開催してくれることになったので、参列させてもらった。


彼とは父親が同じ職場だったこともあり、小学生低学年の幼い頃に、社宅(官舎)で一緒に過ごしており、家族同士の付き合いだった。よく自宅に呼ばれて食事もいただいていた。

ただ、就職してからは、一度だけ、彼が私の選挙の時に取材に来てくれ、その時に会話したのが最後となった。会話は、とりとめもないお互いの家族の状況確認だった。


セレモニー室に入ると、笑顔の彼の写真が白い花に囲まれていた。

その写真を見た瞬間に涙があふれだした。


まさか涙が出るとは思わなかった。

前に涙を流した日がいつだったか、思い出さないくらい泣いたことはない。

でも、涙が止まらなかった。涙が頬から滴り落ちるくらい涙が流れた。


祭壇の横には、友人のお母さまがいた。

涙が止まらないままに、歩み寄り、

私は子供のころのように「おばさん」と呼びかけると、


おばさんは「けんちゃん、よく遠い所から来てくれたね。ありがとう。」と手を握ってくれた。


悲しみを隠そうとするようなその手から逆に悲しみが伝わってきて、涙がまたこぼれた。

おばさんも私の悲しみが伝わったのか、大粒の涙がほほを伝わっていた。


私は、兄も来たがっていたが、仕事で都合がつかなかったこと、母はなんと声をかけていいかわからず電話もできないでいること、をおばさんに伝えた。

おばさんは「けんちゃんが来てくれたから、息子も喜んでいるわ。」と言ってくれた。

私に微笑みかけるおばさんを見て、伴侶も失い、寄りかかる人もいない、その中で一人で悲しみに堪えてきたのだろう思い、ますますつらくなった。

私は、ただ、ただ、手を握り返すことしかできなかった。


セレモニーでは会社の同僚、大学時代の友人、親族代表から話があった。

どのエピソードも彼だったそうだろうなということばかりだった。

小学校以来深い付き合いはなかったが、その子供のころの雰囲気、明るく・元気、がそのまま大学でも職場でも続いていたんだなと感じた。


セレモニーが終わり、お別れの会食が開催された。

友人の兄から是非参加してほしいと言われていたので、参加させてもらった。

友人は私の5歳年下であるが、友人の兄は私と同じ歳だ。

友人とその兄も私と同じ高校の卒業生であるため、何人か私の知人も会食に参加していた。


知人たちと食事をしていると、おばさんが挨拶に来てくれた。

私は、「彼は、大学や職場でも幼いころに一緒に遊んでいた感じとかわらないね。元気で、明るく、なんでも一生懸命だったんだね」と話すと、おばさんは、「子どもは変わらないわ。けんちゃんも昔と全然かわってないよ。」と言ってくれた。

それから、色々な話をした。彼がやっていた剣道の話、5人の孫のこと、幼いころの私の行動など。


おばさんとの会話の中で一番印象的だったのは、「海外赴任前に、半年間、友人がおばさんの家から通勤していた」という話だった。

彼は、転勤の都合で、自宅から通えなくなり、実家から半年間通勤していたというのだ。その間、おばさんが食事を作り、洗濯をし、アイロンをかけていた、ということだった。


おばさんは、「シャツにアイロンを毎日かけていた。それが幸せでたまらなかった」と満面の笑顔でアイロンをかけるジェスチャーまでして話してくれた。


その時には、おばさんの伴侶は亡くなっており、大きな家に一人で住まわれていたはず。

その中で息子が自宅に帰ってきた。

「息子の面倒を見られたことが、たまらなく幸せだった」のだ。


おばさんのその表情と話は、本当に魂を奪われるくらいに、衝撃だった。


私は、与えられた一回だけの人生をとことん幸せに生きたい、どうすれば満足して幸せに死ねるのか?と常に考えている。

しかしながら、これが幸せだ、と言い切るところまでとても行き着いていない。

悩みはしないが、常に探し求めている状況だ。


その中で、おばさんの話は衝撃的だった。


「アイロンをかけることがたまらなく幸せ」


昔を懐かしむよな笑顔で語るおばさんに、本当の幸せがここにある、と感じた。


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友人に謝りたいこと


セレモニーでは、友人の生前の映像が流れ、彼の書いた文書をつづった追悼録が配布された。彼は新聞記者であり、その記事や随筆が小さな冊子に取りまとめられていた。


私はその追悼録をむさぼるように読んだ。

その中で、「子供たちと泥団子を作った」ことが書かれていた。子供たちと一緒に表面がつるつるの泥団子を作ったという話だ。


この話を読んで、その一瞬に、もう50年近く前の記憶が鮮明によみがえった。


彼と私は5歳ほど歳が離れており、彼の兄が私と同じ歳なので一緒に遊んでいた。遊んでいたというよりも、私たちが遊ぶのに、味噌っかす、のように彼がついて回っていた感じだった。


その中で思い出すのは、社宅(官舎)の中にあった砂場で一生懸命に彼が泥団子を作っていたことだ。


当時、3,4歳だった彼は、泥団子(当時、トウマルと呼んでいた)をいくつも作り、それを砂場の淵の木の上に並べていた。


丁度、砂場の横には、倉庫というか物置場があった。

その裏から、私たち(確か私の兄と一緒)は、一生懸命、集中して泥団子を作る彼の隙を見て、倉庫裏から走って行って、彼が作った泥団子をつぶし、そしてまた倉庫裏に逃げたのだ。


これに気付かない彼の集中力もすごいものである。

しかし、団子を作り、作った団子を砂場の淵に載せるときに、彼は泥団子が壊されていることに気付いた。

そして、周りにいる子どもたちに、「誰が俺の泥団子をこわしたんだ!」と怒り、叫びながら、聞いて回ったのだ。(今思うと、彼のものおじしないで、年上の子供にも問い詰めていたところもすごかった。)

そのシーンを私は兄(?曖昧な記憶)ととともに、笑いながら倉庫の陰から見ていたのだ。


追悼録を読み、三つ子の魂百まで、というが、泥団子作りがすきだったんだなと笑みが出てきた。

同時に、「本当に申し訳ないことをした」と謝らせてもらった。


記憶というのは、残るものだと感じた。

日ごろは全く思い出さないことでも、脳みその中にきちんと生きているのだ。


人は、生命を失い、娑婆世界に存在しなくなっても、人の記憶の中に生き続けるのだろうと思った。

それも小さな幸せとともに。


友人のご冥福を心から祈念します。

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