「夜と霧」 ヴィクトール・E・フランクル著
原題は「強制収容所における位一心理学者の体験」とあり、心理学者のフランクルがアウシュビッツでの体験を分析したものです。
想像を絶する苦しみだけの中(3年間、それもいつ終わりがあるか分からない)で
「どのような人が生き抜けたか」、「どのような行動を人がとったか」を学者として見たものです。
色々と書きたいことはありますが、
「自分を待っている仕事や愛する人間に対する責任を自覚した人間は生きることから降りられない」
「収容所にあっても完全な内なる自由を表現し、苦悩があってこそ可能な価値へと飛躍できた」
というところに生きることの根本的な意味があるのではないかと思いました。
なぜ、フランクル氏が生き延びることができたか?
私は
「自分が生かされていると考え運命を受け入れたこと」そして
「学問への深い深い意志」
ではないかと私は思いました。
「フェルマーの最終定理」 サイモン シン著
久しぶりに集中して読ませてもらいました。
すばらしい本です。
自分なりにピタゴラス、ユークリッドまでの数学の流れが少しは理解できたと思いました。
また、ゲーデルの不完全性定理
①数学(これは論理一般に普遍化できるのでは)は答えることができない問題が存在する
②公理の集合が矛盾がないと確信することは決してできない(公理をすべて証明することはできないと理解しました)
はやはり感動です。
宇宙にはかならず証明できないなぞが残る。
これはハイゼンベルクの不確定性原理「ものの位置と運動は正確に把握できない。つまり未来を完全に正確に予測できない」を聞いたときのインパクトに匹敵します。
私は情報工学科出身ですのでコンピュータの父としてフォン・ノイマンを学びましたが、数学・経済学の大理論「ゲーム理論」を生み出していたとこの本ではっきり認識しました。
天才は枠がないのですね。
「親子で読む『言志四録』」
特定非営利活動法人いわむら一斎塾より、
販売されている書籍です。
佐藤一斎の言志四録を絵本にしたもので、イラストもかわいく、いい本です。
私の好きな言葉は、
-少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。
壮にして学べば、則ち老いて衰えず。
老いて学べば、則ち死して朽ちず。
-人は須らく忙裏に閒を占め、苦中に楽を存する工夫を著くすべし。
-信を人に取れば則ち財足らざることなし。
-着眼高ければ、則ち理を見て岐(き)せず。
志を高く持ち、常に努力することが、要諦だということです。
「方法序説」 デカルト著
「われ思うゆえにわれあり(コギト・エルゴ・スム9」で有名な書です。
本書では「私は考える、それ故に私は有る」と訳されています。
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以下私の理解で書いていますので、間違っている可能性が大きく、正確な表現ではありませんが、
デカルトは、疑えるものはすべて真理でなく、疑えないものは「自分自身が考えていること」であること。また、自分があるためには「神」が存在しないといけないこと、
としています。
やはりここでキリスト教の考え、神と人間、超越した客体と主体というものが出ていると思いました。
この神の存在証明はロジカルでないと感じます。「考えているいる自分と宇宙がひとつである」との理解の仕方もあると思います(こちらもロジカルでないですが)。
これも私個人の解釈ですが、
「人が理解できないもの=神の領域」とデカルトは定義していたのではないかと思いました。
この理解が正しいかどうかをどこかで確認しなければなりません。
特に感心したのは第3部です。デカルトの考え方が出ています。
①穏健であること、
②一度決めた以上は一貫して行うこと、
③運命よりは自分に打ち克つこと(克己)、
④さまざまな仕事から最善のものを選び出すこと、
特に②と④は考えさせられるものがあります。
「ツァラトゥストラはこう言った 上」 Friedrich Nietzsche著, 氷上 英広訳
一行一行しっかり読んでいないので読書感想を書くのもおこがましいですが、
ニーチェが言っている「超人」は、「自分自身の内面にある宿命」と「やるべき意志による運命」が一致している人のことを指しているのでないかと思いました。
言い換えれば、本当に自由に生きる「幼な子」が超人と同義語ではないでしょうか(この理解がミスっているとしたら致命傷です)。
自分自身、本当に精神的に自由に生きているか問うことがしばしばで、はっきり与えられた宿命(宿る命)がわかっているとは思っていません。ただ、命を運ぼう(運命)と必死ではありますが。
文書を読んでいると神が与える宿命を否定しているようですが、「われは欲するもの」というのはまさしく宿命ではないかと解釈しています。
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早く「下」も読まなければなりません。






















