インタビュー2

藤末健三へインタビュー
聞き手:クロスロード株式会社  代表取締役社長 辻口 寛一(インタビュー日:2009年12月10日)

入省後は連日深夜までの激務。しかし、家族の存在を励みに勉強を継続し留学を果たす。留学では学問の楽しさを知ると同時に、「個人としての存在」を意識するようになる。また、ハーバード時代の満ち足りた時間に「幸せの原点」となる瞬間を味わう。帰国後は働きながら博士号を取得。同時に、東大が自分の研究分野で学科を新設することを知り、専任講師として転ずることになる。

―― 通産省入省の経緯を率直に語っていただきましたが、入省後はいかがでしたか?。

藤末:こうして1986年に通産省に入ったのですが、これも本当によかったと思っています。はじめはコピー取りや資料配りなどの下働きばかりですが、当時の通産省は現場の権限が強く、その後は多くの仕事をさせてもらいました。バブル絶頂の頃には料亭で接待を受けてチヤホヤされたりして、ちょっと勘違いしていたかもしれませんね。でも多くの仲間達は、強い使命感を持って仕事をしていましたよ。私もスーパーコンピュータの日米交渉で事務局を担当した時は、産業界と結託したアメリカ政府相手に少しもひるみませんでしたし、環境政策課で法案作りを担当したころは連日深夜まで働き、休みも半年間で二日しか取れず、妻は労災を申請するために帰宅時間の記録をしていたくらいです。

 日米交渉で英語を読む機会が増えたことと、周囲にいる東大卒に負けたくないと思ったこと、また視野を広げて力をつけたいと思ったこともあり、留学への思いが強くなりました。27歳で結婚し子供もできましたが、かえってそれが励みになって勉強にも身が入っていたのです。仕事が忙しくて留学の年齢制限を超えてしまいましたが、上司と人事に掛け合ってマサチューセッツ工科大学(MIT)の経営大学院に留学しました。1994年、30歳のときです。MITでは通常二年かかる修士課程を一年で修め、その後ハーバード大学の行政大学院に進み、これも一年で修了しました。こうしたところは、「東大に負けたくない」というパワーが出たように思います。やはり「東工大を出てよかった」と思うところですね。

―― 大変な熱意で留学されたのですね。

藤末:留学中は多くのことを学び、人生が変わったといってもいいと思います。学問の楽しさを本当の意味で知ったのもこの時です。「なるほどなあ...こういう考え方があるのか!」という「知る楽しみ」ですね。しかしなんといっても大きいのは、それまで「通産省の藤末」だったのが、「個人としての藤末」の存在に気付いたことです。日本人は何かと「どこの組織に所属しているか」を気にしますが、アメリカでは日本と違い「自分が何者なのか」が問われます。「個人としての自分」を磨いていくことの大切さですね。しかし、アメリカでは「個」の存在が強すぎて、「個と個がつながっていること」が大切にされていないような気がしましたけどね。

 留学には家族も連れていきましたが、ほんとうにお金がないので、荷物は最小限にして船便で送ってもらい、家具などは先に留学していた人のものを使わせてもらいました。大したお金もないのに海外で暮らせたのは若いからできたことで、もう一度やれといわれてもできませんね。英語も読み書きはできても会話が苦手で、プレゼンテーションに苦労したり、会話と文章のギャップから提出物を「代筆ではないか?」と疑われたりしていました。でも会話が下手なので、疑われたり馬鹿にされたりしても、真っ赤になって怒っているだけでうまく言い返せないのです(苦笑)。

 留学中は勉強ばかりでなく、ボクシング部に入って体も鍛えていました。れっきとした体育会で、私は最年長です(笑)。ハーバード時代は地元のジムにも毎日通い、プロのライセンスを取得しました。ジムに通う車の中で暖かな日差しを浴びながら、「きれいな街で家族と過ごして、好きな学問とボクシングをやりたい放題。ああ、なんて自分は幸せなんだろう...」と感じていました。この瞬間が私にとっての「幸せの原点」ですね。決して地位や名誉、お金などではないのです。穏やかな環境の中で、充実した仕事と人間関係を持つことが大切なのですね。あの瞬間があるから、私はいくら「おいしい話」をチラつかされても、心が揺れることはないのです。私は涙もろくて、帰国の際にジムに挨拶に行ったときには涙が溢れて止まらなくなり、それを見たコーチたちから笑われてしまいました。

―― ほんとうに充実した留学生活だったのですね。帰国後はいかがでしたか?

藤末:留学期限は二年までなので仕方なく帰国しましたが、学問は続けたいと考えて帰国後も論文を書き続けていました。しばらくして母校の東工大で働きながら博士課程が修められることを知り、深夜に帰宅しても毎朝五時前に起床して論文を書き続けました。こうして「日本企業の研究開発の国際戦略」という論文を完成させ、東工大で学術博士号を取得しました。この間は仲間と飲みにいくことも一切なかったので、「藤末はつき合いが悪い」というイメージが定着してしまったかもしれませんね。

 その後、東大が私の専門である技術経営について教員を募集していることを知りました。東大では十数年ぶりの新設学科で、外部から教員を募集するのは珍しいことです。そこで上司に仲介をお願いし、通産省の人事とも折り合いをつけて、専任講師として東大に転じました。1999年、35歳のときです。

 東大では経営論と政策論を教えていましたが、学生による授業評価でほとんど一位か二位を獲得していました。講師となってからは、まずは助教授になろうと頑張って必要な論文や教科書の執筆をこなし、一年半後に助教授となりました。助教授になれば研究講座も自分で持てますし、一国一城の主となります。とはいえ、通産省時代には100億の予算を預かり多くの人の訪問を受けていたのに、「東大の先生」となった私を訪ねてくる人はまばらで、「これが通産省という組織を離れた自分の実力なんだな...」と思い知りました。留学で「個人としての自分」に気付いたとはいえ、通産省という組織を離れた自分の小ささを思い知らされましたね。